宗祖親鸞聖人は、越後ご流罪が勅免された後、東国に向かわれ、常陸の国、稲田の郷、吹雪谷(現在の茨城県笠間市)に草庵を結ばれ「歓喜踊躍山 浄土真宗興行の寺」と称し、略して浄興寺と呼ばれました。これが名前の由来です。時は、建保2年(1214)正月の頃であります。 親鸞聖人は、ここに止住すること10数年、貞永元年(1232)京都に帰られる時、二十一箇条の制誠を与えて、この浄興寺を高弟の善性房に譲られたのでありました。 ところで、善性房とは、後鳥羽天皇の第三皇子にして、承元4年12歳の時、青蓮
院慈円僧正の許で得慮し、大覚親王周施律師と号しておりました。やがて武者行脚に出、常陸に下向し板敷山の誓い住し、大覚浄師と号しておりましたが、建保6年親鸞聖人のお弟子となり善性房と改名したのであります。 聖人帰洛に際して善性房は浄興寺を譲られますが、弘長3年(1263)兵火のために御堂が焼け、文永4年(1267)、善性房は信州長沼(善光寺の付近)に移しました。

善性房によって寺墓を常陸より信濃に移された後、浄興寺は約300年の時を経ました。時代は鎌倉時代・室町時代の頃であります。ところが時代が戦国時代に入り、上杉謙信と武田信玄との戦いが川中島において行われた時、その付近にあった長沼の浄興寺が兵火で焼かれました。そこで、その時の住職・周円坊西賢上人が次男の西順坊と共に甲斐の国に逃れました。永禄4年(1561)の時であります。


父子共々甲州に逃れ、現在の山梨県都留市小型山の地に寺墓をかまえました。間も経て同市田野倉の地に移り徳川時代を経、明治・大正を至りました。


昭和に入り日宗の近代化が推進され、人口の東京流入が始まりましたので、
前住職・田ノ倉真賢は、都市開教の使命を帯びて、東京都大田区西蒲田の
地に布教所を建てました。昭和2年4月の事であります。やがて昭和11年1月大田区東矢口の現在の地に移転し、昭和50年に本堂を完成し、現在に至っております。

ShinranShonin.png

      宗祖 

浄興寺は浄土真宗のお寺です

宗名  浄土真宗本願寺派

宗祖   親鸞聖人

本尊   阿弥陀如来

本山   京都  本願寺  (お西)

住所  東京都大田区東矢口2−10−9

 

浄興寺の法歳殿と本堂

1F  中央にお内佛がまします。ここで、各種教化伝道活動が行われます。

2F  内陣より外陣を見る。

 

 

 

          オリジナル祭壇                        

                     オリジナル祭壇 

                 葬儀の事は             

 

   

      
 お花を贈ることができます

       供花の事は

 

浄土真宗とは

浄土真宗の宗祖は親鸞聖人(1173−1262)です。九歳のとき京都青蓮院で出家し、その後二十年間比叡山で修行をしました。山を降りた後、吉水の法然上人を訪ねて念仏の教えに出会いました。そして、法然上人の弟子になりました。五十二歳のとき、教行信証を著し、これをもって浄土真宗の立教開宗の年としています。浄土真宗のご本尊は阿弥陀如来です。浄土真宗の所依経典は浄土三部経、往生論など浄土宗と同じですが、教行信証を立教開宗の諸依とします。浄土真宗の教義は南無阿弥陀仏と唱えれば必ず極楽浄土に往生することができるという教えです。浄土真宗の寺院には西本願寺(浄土真宗本願寺派)、東本願寺(真宗大谷派)、築地本願寺があります。浄土真宗には十派があります。

 

京都 本願寺(西)

浄土真宗  焼香のマナー

  1. 祭壇に進み、遺族に目礼し、故人の遺影に向かって一礼します。
  2. 一度合掌します。
  3. 親指、人指し指、中指で抹香をつまみ、目の高さぐらいまでに持ち上げます。
  4. 抹香を香炉の中へ落とします。(本願寺派[お西]は1回、大谷派[お東]は2回)
  5. 改めて遺影に向かって合掌します。
  6. 一歩下がり、僧侶と遺族に一礼し、席に戻ります。
 
ホームページ制作、ホームページ作成